メサイア
「高校同期が真っ当に生きていたり生きていなかったりして、でも一番苦しいのは自分だ」と書こうとした時、ふと色々な人の顔が思い浮かんでやめた。考えが浅かった。
回復しつつあるとはいえ今でもたまに精神的に辛い時がある。しかしそうした中で時折同級生のことを考える。辛い気持ちとそうでない気持ちの狭間では人のことを想う気持ちが働くのだ。自分なんかより苦しんでいるのではないだろうか。病状はよくなっただろうか。寂しくしていないだろうか。心を痛めていないだろうか。そして、自分だけが良くなっていいのだろうか。
自身の幸せに対して罪悪感を感じるようになったのは高校2年生のことである。学祭の熱も冷めやらぬ頃、祖父が事故で亡くなった。丸ノコで脚を切ったと言えば大体分かるだろう。この日のことを、2017年7月11日のことを詳しく書こうと今まで何度も試みてきた。でも出来なかった。あまりにも記憶が鮮明すぎるのだ。血の色が、においが、慟哭が。それは私が学祭の打ち上げに参加した日だった。
幸せの絶頂においてもそれとは全く逆のことが身近で起きている。そう常に考えるようになった。故にあまりにも幸せだと感じると感情がおかしくなる。そしてあの日のことを思い出す。
トリガーはいくらでもある。過度なストレスを受けた時にも辛い他の記憶を思い出した時にも連鎖して発作を起こすことがある。大学の授業で見た映画の子供を亡くし泣く父親の姿に、警察署の敷地内の遺体安置所の光景がフラッシュバックしたこともある。血は当時を境に耐性がなくなった。スーパーの食肉コーナーであっても時折血のにおいから想起することがある。またシューティングゲームなどの出血要素のあるゲームを避けるようになったのはこの頃からである。電ノコや丸ノコはもちろん無理だ。
いわゆるPTSDというやつだ。厳密には一回の事故を通して発生したPTSDを単純性PTSDと呼ぶ。大学に入る頃にはほとんど大丈夫だろうと考えていた。しかし授業で発作を起こした。意志に関係なく涙がとめどなく溢れてくるのだ。3年過ぎたら大丈夫だろうと思っていた自分には衝撃的な出来事だった。この時、一生記憶と向き合わなければならないと感じた。
今もこのように思い出している中で同級生のさまざまな苦労をしている人のことを考えている。彼らに「行かないで」と言われているような気がする。私はひとり幸せになることへの罪悪感から人を助けようとしている。それは決して理想的な行いではない。でもそうしてしまうのだ。苦しい。
そもそも人が人を救うなど烏滸がましい行為なのだ。でも彼らが見放されることには堪えられない。私はどうすればいいのだろう。どうすれば。
身体のよみがえり、永遠の命
私は取材のため消しゴム再生施設を訪問した。使いきれなかった消しゴムが再利用されていることは知っていたが、取材の案内が来るまで専用の施設があるということは全く知らなかった。施設は某市郊外、何もない森の奥を真っ黒に輝くアスファルトがその施設まで続いていた。
守衛に身分証を見せ、持ちもの検査を終え、ゲートを通過した。早々に施設長が出迎えてくれた。挨拶を済ませてから私は早速気になったことを質問した。
「ただの消しゴムのリサイクル施設にセキュリティゲートがあるのはなぜでしょうか?」
「時折消しゴム愛護団体が抗議活動に来るのです。急進派の団体がフェンスを越えて侵入しようとしたこともあります。消しゴムの生命観をめぐっては様々な議論がありますからね。」
消しゴムの権利をめぐっては駅前で抗議活動が行われているのを見たことがある。しかし、知らぬところでここまで大きく問題になっていたとは。
最初に施設長は搬入の様子を見せてくれた。各地の学校、学習塾、事業所などから毎日運ばれてくるようだ。施設のシャッターの前まで一台のワゴン車が誘導されてくる。搬入の車はそこまで大きくはなかった。後部のドアを開けると段ボール箱が積まれている。施設長がそのうちの一つをカッターナイフで切って開けると箱いっぱいに入った消しゴムの山が姿を現した。
「今日は少ないほうです。夏休み期間ですからね。」
そう言うと次の場所に案内された。灰色がかった半透明で大きなタンクがあった。
「ここは消しゴムたちの汚れを落とす浄化槽です。黒鉛と結合する特殊な液体が入っています。この後、彼らは大きさに応じて別の工程で再生されます。」
消しゴムは浄化槽から大きな目の細かいザルのようなもので引き上げられた。その後、ベルトコンベアで振動する板に運ばれていった。
「ここで大きさを振り分けています。この後本格的な処理が始まります。まずは大きい消しゴムたちの処理工程を見ましょう。」
そこで案内されたのは巨大な5つの指を持つアームだった。ちょうど産業用機械展に展示されているような腕だけのロボットだ。アームの真下には学校で使われているような机が置かれていた。
「ここでは大きい消しゴムたちをロボットによって摩耗させていきます。消しゴムの分解には熱を加えるなどの方法もあるのですが、こうしたほうがより自然に、低ストレスで分解できるのです。倫理上も適っています。では動かしてみましょう。」
ロボットは先ほど選別された大きめの消しゴムを箱から一つ取り出すと、高速でこすり始めた。ものの数秒で消しカスと化していった。その様子は安楽死ともとらえることができた。後から聞くと机を用いるのは効率が良いからなのだそうだ。
「小さな消しゴムはどうするのですか?」
「ええ、これからお見せしましょう。意外とアナログなのですよ。」
今度は二階に案内された。そこには一〇人ほどの従業員が何やら机に向かってせわしなく腕を動かしていた。まさか……ね。
「驚いたでしょう。小さな消しゴムはロボットには難しいのです。今でも人力でこするのですよ。」
その動きは驚異的だった。次から次へと流れてくる小さな消しゴムを一瞬で消しカスに変えてしまうのだ。ここにいる従業員はみな熟練なのだそうだ。
「次に可塑剤を混ぜて新しい消しゴムに生まれ変わる様子を……と行きたいのですが、その前に見ていただきたい場所があります。」
ついていくと施設長は一階に戻り、裏口から外に出た。そこには不完全な消しゴムの形をした大きな石像が立っていた。足元の石板には「慰霊」と彫り込まれている。
「世の中には最後まで使い切られずに、志半ばで捨てられる消しゴムが後を絶ちません。私どもは彼らを死なせ、そして蘇らせる。そうすることで彼らに永遠の命を授けたいと思っています。しかし、その過程では必ず死を伴います。こうして愛護団体から抗議を受けてはいるものの、私たちは私たちのやり方で消しゴムたちを救いたい。そう思っています。」
施設長は声を掠れさせながら語った。
「なるほど、命か。」
私はせめてもの供養として石碑の前で深くお辞儀をし、手を合わせた。
倉庫に運ばれた消しカスの山は壮観な風景だった。同時にこの山が骸の山にも見えてきた。私たちは多くの犠牲の上に成り立っている。そう思えた。
ショベルカーで運ばれると消しゴムだった彼らは可塑剤の入ったタンクに入れられ、加熱された。溶けた彼らは薄く延ばされて大きな消しゴムの板となった。その後、適度な大きさに切り取られ、彼らは新しい命を手にした。
「せっかくなのでこの消しゴムをどうぞ。できれば最後まで使ってあげてください。」
施設長が帰り際に渡してくれた。取材から一ヶ月経つが今でも使えずにいる。果たして彼らにとって使われることは幸せなのだろうか。消しゴムは真っ白で何も答えないようだった。
寒さ
けれども北海道の冬となると徹底的に冬だ。凡ての生命が不可能の少し手前まで追いこめられる程の冬だ。
有島武郎『北海道に就いての印象』より
寒さとは死のことだった。氷点下20℃にも30℃にもなる土地での話だ。ここでは寒いとは生きているという証でもあった。
故郷はこんなに寒いという自慢をするつもりはない。ただ、そこで生きていたということを書きたい。
わたしの住む場所には冬というものが3つほどあったと思う。初冬、真冬、晩冬だ。冬の始まりは水が凍ることから始まり、雪が降り、やがて根雪(積雪が春まで解けないこと)となる。それからはひたすらに寒い。世界は死と隣り合わせになり、ここに生命がいたことを忘れるほどだ。
真冬に行われるスケートは得意ではなく、むしろ不得意な方だったが今となっては思い出である。小学校ではスピードスケート、中学校ではアイスホッケーが体育として行われた。靴紐を結ぶのにかなりの力が必要なこと、氷を駆ける時、空があまりにも青かったこと、帽子を脱ぐと汗が凍ったこと、いずれも忘れることはないだろう。(残念なことに中学校のホッケーは最近スキー学習に変わってしまった)
死と隣り合わせとは言うが、これは人間も同様であった。母親の高校の生徒で凍死者が出たことがある。バイトの帰りに家の前で眠ってしまって凍死したという。そういう世界だ。若人であっても簡単に死ぬ。
そんな場所で19年ほど過ごした。そして今は京都にいる。京都は寒暖の差が激しいと聞かされていた。実際、夏は堪え難い。梅雨の湿り気も呼吸が難しくなるほどだった。しかし、寒さはそれほどだった。故郷での秋の終わり、冬の始まりの寒さがここでは真冬を意味していた。
雪の話をするつもりはあまりないのだが、京都では雪があまり降らないことにも驚いた。自転車は冬でも使えるというし、クリスマスが雪に覆われないこともカルチャーショックだった。なにより根雪の概念を持たないことは衝撃的だった。
どこにいてもあの寒さを忘れることはないだろう。故郷の寒さはわたしと世界を完全に隔てていた。わたしは世界ではなかった。世界はわたしではなかった。ふたつは対立していた。
寒さを感じられる限り、わたしは生きているということがわかった。凍る鼻毛やまつ毛はわたしが呼吸をし、その水蒸気が凍てつくのを実感させてくれた。
北海道のイメージとして大自然が語られるが人の住むところの多くは作られた自然である。石狩平野や十勝平野は原生林を薙ぎ倒して切り株を引き抜いてできた平原なのだ。この地でわたしたちと自然は対立する存在だった。その点ではヨーロッパの感覚に近いのかもしれない。
今、世界とわたしが溶け合うようなこの暑さの中で、あの寒さを思い浮かべると死にも近いような感覚が懐かしくなる。世界とわたしがひとつになるのはあの中で死ぬ時だ。そしていつかわたしはあの中で死ぬ。そうでありたい。
鯛とシイラのアクアパッツァ
急に料理の記録を取りたくなったのでブログを始めました。ブログ自体は以前もやってたことあるけどね。料理以外のことも記録するかもしれないけど何をやるかは全体的に未定。
今回はアクアパッツァを作りました。ボイスロイドの料理動画を見ていて急に作りたくなった。まあ買ってきたミニトマトが微妙な味だったのとマッシュルームが余ってたのも理由なんだけどね。
一応なんの参考にもならないレシピを置いておきます。
レシピ
- 鯛 3切れ
- シイラ 2切れ
- ムール貝 4個
- ハマグリ 2個
- デカめのマッシュルーム 2個
- パプリカ(赤黄) おそらく8分の1程度ずつ
- ミニトマト 8個
- ニンニク 1片
- 白ワイン ドボドボ
- オリーブオイル ドボ
- バジル 少々
- 水 100ml(半カップ)
では行きましょう。
手始めにハマグリです。洛北で半額でした。50℃くらいの塩水で砂抜きするとめちゃくちゃ早く抜けるらしいです。ちなみに全然出てこなかった。
次に鯛とシイラをやります。鯛は半額だった。なぜシイラなんて入れようと思ったかというと老人と海でしか見たことがなかったから。
本来は切り身ではなくてまるまる一尾使いたかったんだけど、尾頭付きの鯛がそもそも売り切れてたのとスーパーに行く時間が遅くて下処理お願いできなかったので。
オリーブオイルとニンニクを入れて加熱。だんだん匂いしてきたなってところでぶち込んでいきます。
ギリギリか?
まあある程度焼けたし火の通ってないところは煮込むからいいだろう。
火を止めて、先ほどのハマグリとムール貝を洗って入れておきます。一旦材料切るので放置。
パプリカ。そういう映画あったよね。多分観てないけど。
おい……切るの苦労したのに画像が残ってなかったぞ……
マッシュルームも入れました。白ワインをふた回しぐらいかけたのですが、正直そんなにいらなかったなって感じがします。
肝心のトマト入れ忘れてました。結構味に影響しますね。次回作るとしたらセミドライトマトを使ってみたい。
水を入れて煮込み。結構かかった。トマトとパプリカ生っぽくね?状態が続いたけど時間さえかければなんとかなる。最終的に30分近くかかったけど火加減弱すぎたか。
余談なんだけど、京都市の水道水は半端なく臭いのでペットボトルの水使ってます。どれくらい臭いかというとカレーが不味くなるくらい。ちなみに5月が一番臭いらしいです。琵琶湖のプランクトンを恨みましょう。
完成。バジルかかってないけど撮った後にかけたので。
塩は魚介から取れるのかいらなかった。場合によって入れてもいいと思うけど。
味は魚介の出汁にトマトの酸味とパプリカの風味がそこそこいい感じに調和していたのでよかったと思う。パスタ入れても美味しかった可能性はある。
シイラは初めて食べたけど思ってたよりさっぱりした肉質でどちらかというと油物の方が合ってそうな気がする。ムール貝は思ってたより出汁が効くなと思った。ハマグリは……正直出汁に影響したかよくわからない(バカ舌だから?)。まあ肉を楽しもう。
微妙だったミニトマトだけど煮込まれることでそこそこ甘くなった気がする。マッシュルームの出汁は出てたと思うけどもう少し存在感が欲しいので次回は増やしたいですね。それとパプリカ切るのにめちゃくちゃ難儀してたんですが、実家から送られてきたみじん切り機の存在に後から気づいた。ちなみに大部分は使わないので冷凍保存してます。いつの日か世界を救うと信じてー
机汚くないか?というかキッチンも汚かった。次回は未定。おしまい。