錦林車庫

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寒さ

けれども北海道の冬となると徹底的に冬だ。凡ての生命が不可能の少し手前まで追いこめられる程の冬だ。

有島武郎『北海道に就いての印象』より

寒さとは死のことだった。氷点下20℃にも30℃にもなる土地での話だ。ここでは寒いとは生きているという証でもあった。

故郷はこんなに寒いという自慢をするつもりはない。ただ、そこで生きていたということを書きたい。

わたしの住む場所には冬というものが3つほどあったと思う。初冬、真冬、晩冬だ。冬の始まりは水が凍ることから始まり、雪が降り、やがて根雪(積雪が春まで解けないこと)となる。それからはひたすらに寒い。世界は死と隣り合わせになり、ここに生命がいたことを忘れるほどだ。

真冬に行われるスケートは得意ではなく、むしろ不得意な方だったが今となっては思い出である。小学校ではスピードスケート、中学校ではアイスホッケーが体育として行われた。靴紐を結ぶのにかなりの力が必要なこと、氷を駆ける時、空があまりにも青かったこと、帽子を脱ぐと汗が凍ったこと、いずれも忘れることはないだろう。(残念なことに中学校のホッケーは最近スキー学習に変わってしまった)

死と隣り合わせとは言うが、これは人間も同様であった。母親の高校の生徒で凍死者が出たことがある。バイトの帰りに家の前で眠ってしまって凍死したという。そういう世界だ。若人であっても簡単に死ぬ。

そんな場所で19年ほど過ごした。そして今は京都にいる。京都は寒暖の差が激しいと聞かされていた。実際、夏は堪え難い。梅雨の湿り気も呼吸が難しくなるほどだった。しかし、寒さはそれほどだった。故郷での秋の終わり、冬の始まりの寒さがここでは真冬を意味していた。

雪の話をするつもりはあまりないのだが、京都では雪があまり降らないことにも驚いた。自転車は冬でも使えるというし、クリスマスが雪に覆われないこともカルチャーショックだった。なにより根雪の概念を持たないことは衝撃的だった。

どこにいてもあの寒さを忘れることはないだろう。故郷の寒さはわたしと世界を完全に隔てていた。わたしは世界ではなかった。世界はわたしではなかった。ふたつは対立していた。

寒さを感じられる限り、わたしは生きているということがわかった。凍る鼻毛やまつ毛はわたしが呼吸をし、その水蒸気が凍てつくのを実感させてくれた。

北海道のイメージとして大自然が語られるが人の住むところの多くは作られた自然である。石狩平野十勝平野は原生林を薙ぎ倒して切り株を引き抜いてできた平原なのだ。この地でわたしたちと自然は対立する存在だった。その点ではヨーロッパの感覚に近いのかもしれない。

今、世界とわたしが溶け合うようなこの暑さの中で、あの寒さを思い浮かべると死にも近いような感覚が懐かしくなる。世界とわたしがひとつになるのはあの中で死ぬ時だ。そしていつかわたしはあの中で死ぬ。そうでありたい。